2009年11月24日火曜日

風が吹けば桶屋が…僕が仕事すれば子猫が…

通勤路に駐車場があります。住宅地の中にある、砂利と区分けのロープが張ってあるだけの、駐車場です。この駐車場の片隅に小さく、直径40cmくらいかな、砂利が盛られたところがあります。

ある雨の日、この駐車場の脇で、子猫が冷たくなっていました。朝の出社時でした。僕は何もせずに、かわいそうに、と思いながら通り過ぎるだけでした。
その日の夜だったか、次の日だったかは思い出せませんが、子猫の亡骸は道端からなくなり、駐車場の片隅に砂利が盛られた場所ができました。それまではなかったように思います。たぶん、近隣の方が、お墓として作ったんだと、勝手に思ってます。

それ以来、そこを通るときに思うことがあります。僕が普段の仕事で何をしていたら、あの子猫は死なずに済んだろうか、いや、僕の仕事ではどうにもならないんだろうな、ということ。「風が吹けば桶屋が儲かる」のアンサイクロペディアの説明のごとく、僕が仕事をすれば子猫が助かるというのは、隔たりがとてつもないな、と。


自分の仕事と身近な出来事の隔たりなんて、何を結びつけようとするか次第で、いくらでもある話です。

冒頭の話は極端な例ですが、こういった仕事との隔たりができるだけ小さい身近な出来事を、もっと見つめる、みつける、あるいは身近な出来事から隔たりが小さい仕事を見い出す、みつける、方が人は幸せをより感じられるのかなと、思います。仕事は仕事と割り切るという選択肢もありますが、そういうのは前時代的だと、根拠もなしになんとなく感じます。


身近な出来事と仕事との隔たりが小さいことを求める、というのは、自分の手が影響を与えられる範囲に無い物を、欲しているのかもしれません。手が届かない社会的秩序で作られた壁の向こうのものを、手の届くところに配置したがる、と言い換えるとあれです、エントロピー増大測っぽいじゃないですか。あくまで喩えですが。

ここで社会的秩序といいましたが、これはエントロピー増大測の前提である断熱系という秩序とは異なります。人が作りし秩序は、閉じた系ではなく、社会という常に変容する系の、その時点での現象を満たすかのように作られた、というよりむしろはみ出すものを強制するためとか、まあそんなルールです。

話が意図せぬ方向に行き始めたので、仕事と身近の隔たり、に戻します。戻しておいていきなり、「仕事」を「自分の手でできること」と言い換えましょう。会社の仕事という枠を一旦忘れます。そうすると、今の世の中、影響を及ぼす事のできることって、いろいろあるのではないでしょうか。とくにインターネットがそれを可能にしている例は多いと思います。何かを作り、公開する、それだけでできます。「何か」って文章でも絵でも、それぞれに敷居の高低、影響の大きさ、あるでしょうが、何かをPublishすればなんらかのFeedbackが得られやすい、のは間違いないでしょう。情報を出せ出せさすれば与えられん、ということを言いたいわけではありません。カツマーではありません。


ここで僕が最近作ったTwitterのbot、カーチャンbotを例にあげます。カーチャンbotとは、2ちゃんねるにて見る人の心を震えさせしんみりさせてしまう破壊力を持ったカーチャン、その台詞(とそれっぽい感じに僕が勝手に作った文言)を、あのAAとともに、1時間に1回Twitterでつぶやくbotです。

このbotをfollowして、そのつぶやきを見た人が、リアルな母を思い浮かべ「今年は帰省しようかな」なんて思ってくれたとしたら、これは僕の作ったものが誰かに影響を与えたかもしれない、ということかと思います。そこまででなくとも、カーチャンbotのつぶやきを見て、一瞬でも和んだ、笑った、しんみりした、なんて人がいれば、そしてそれはありがたいことにそういう旨のreplyをくださる方がいるので把握できるのですが、設計者としては幸せなことです。これは「自分の手でできること」が身近な(と錯覚できるネットを介した)誰かに影響を与えられた、ということです。とはいえ「カーチャン」の力を借りて実現はしているものですが。「カーチャン」こそが偉大です。

ということを想定して「botを作った」わけではなくて、JavaScriptとブラウザあればサーバなしにbot作れんじゃね?という原理確認のために作ったのが本当のところで、カーチャンの前はふかわりょうネタみたいなのをつぶやくbotにしようかなと思っていたりもしました。最終的にカーチャンになったのはたまたまです。
って、botのネタばらし話はどうでもいいや。


話を「自分の手でできること」、それが影響を与えられる「身近に感じられる対象」に戻します。

上にあげたbotは、いくつかのWeb関連技術と、技術を学べるインターネットという環境、などを僕が利用できたから作れました。CreateしてPublishしてFeedbackを得られる、そのための手段があったから、botで和んでくれる人がいることを知り作って良かったなというささやかな満足感を得られる、わけです。
Twitterや関連もろもろによって、僕は、「自分の手でできること」と、その成果が影響を与えられる「身近に感じられる対象」とを、得られたわけです。

こういった自分のできることとその影響を与えられる対象の隔たりを小さくし、達成感、満足感をより得やすくする手段を広く人々に提供できる存在は、今後も人々に必要とされていき、生き残り発展していくと思います。

この仕組みを会社内で回せるような企業は、高い価値のアウトプットを出せると思います。それがさらに社外の人々のための「手段」の発展に繋がるよう、そもそもの理念を設計しておくとよいのではないでしょうか。

風が吹けば桶屋が儲かるよりも、風が吹けば自宅の縁側の風鈴が鳴り、風流さを辺りに醸し出す、それくらいがいいです。

書いていて長くて飽きてきてgdgdしてきたので、このへんで。

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1 件のコメント:

Kousuke Suzuki さんのコメント...

やっぱり、一歩一歩を積み重ねられる体制って、当たり前だけれども、すごく重要な気がするのです。最近。