2009年2月26日木曜日

関越道のあの人は本当にすごい人でした

ドクターモリ。
関越道でみかける、あのインパクトある看板の、ドクターモリ。

すごい人です。だってWikipediaに項目あるんだぜ?
しかも既に故人。

森喜作 - Wikipedia

僕の好きなシイタケの人工栽培の父でもある、と。
ただの父じゃない。慈父ですよ。
国語の教科書に載るとかどんだけ。


いやー僕ももっとがんばんないといけませんね。先日、シイタケを想ってマスコットを描いてはみたけど、もっと愛されキャラとして書き直さないといけないかもしれない!

しいたけ好きのしいたけちゃん(仮)

2009年2月17日火曜日

鳩、歩く。


今回の壁紙は(も)、写真加工にやたらと時間かかってしまいました。

近所のスーパー前の広場の一風景です。色あせ気味のイス、の前を歩く鳩。

1.傾きを補正
2.画像複製
3.イスの色がついてる部分をパスで切り抜き
4.元の画像の方はモノトーン調に変更
5.トリミング
6.各色のRGB値を確認
7.矩形選択で等間隔に5色分の四角作成
8.色の値の文字列入れて
9.テキストもグレイで入れておしまい

最初の傾き補正の前に、方向性さぐるためいろいろやっててまた時間かかってます。

今回はターミナルっぽい雰囲気のフォントがいいなぁと、黒バックだし#RGB値なんて文字列あるからかな、なんとなくCourier New。のBold。

2009年2月14日土曜日

ゲームメーターってなやつがあって

はい。これ。

ゲームメーター - あなたのゲームを管理・共有

Amazonで取り扱ってるゲームをDBとして、自分のやったことあるゲーム、やっているゲーム、積みゲー、欲しいゲーム、などを登録できます。その際、各ゲームに簡単な一言残せたり。

ユーザー登録はさほど面倒ではないです。ユーザー登録が済んでから、自分のやったことあるゲームを検索して登録していくのですが、これがやり始めるとしばらく止まらない。まずはFF、DQ、任天堂系、などから探し始めたりして、そこからは芋づる式に記憶がよみがえってきてあれもやったこれもやったあーそういえばあんなゲームも、とか、キリがないです。とはいえ、ある程度まで行くと落ち着きますが。

ちなみに僕のやったことあるゲームとして登録できたものは198本です。今のところ。

piyobitさんのやったゲーム

ディスクシステム系はハード的な特性の問題上、Amazonで売ってるわけなくて登録できなくて悔しいです。とびだせ大作戦とか。やったころある人が1人だけとかも、微妙な心持ちです。寂しいような、そうでもないような。

2009年2月13日金曜日

社会的同期性のための情報デザインという考え方

ハコモノ電機メーカー論を考えながら、テレビについてさらにいろいろ考えて、今至った考えのメモ。


:: 自分を取り巻く環境を知るための箱 ::
なにを考えていたかって、テレビ(というか、その中身=マスメディアからのコンテンツ授受)というものは、人が社会との同期を図るための、閲覧ツール、ビューワーだってこと。

そこからいろいろ発展的に考えることができそうな予感です。敢えて名前を付ければ、社会同期性デザインという視点で。

テレビでドラマやニュースを見るのは…
・世の中に今どんなことが起きているのか認識するため、そしてそれに対する自分のスタンスを意識するため
・流行を把握するため、流行に対する自分の立ち位置を見直すため
・(主に想定できるコミュニケーション可能な範囲の)人々と共通の話題を持つため
とか。

ニコ動だって1年前の動画を再生する人は少ないでしょう。非同期にコメントを楽しむという行為(ミクロ)は、数週間という一定期間のあの界隈のコミュニティの流行(マクロ)との同期を計る行為のひとつと捉えられるわけです。

他にも、例えばLast.fmとか。自分の音楽再生履歴を晒す、そんな人がたくさん集まることで、なんらかの社会を形成すると同時に、そこへの参加スタンス次第でそこに見える社会がまた自分の位置を把握する自分用同期ソースにもなる。自分はこんな音楽を聞いてるんだけれど、他にいるかなー、ってのも、位置把握・補正などのための行為です。音楽という広い趣味の世界での、自分の軸を探す/再確認するような。その他各種SNS的なものや、Amazon、iTunesStore、Googleなんたら、といったものは、そういう価値を持ってたりするのかな、なんて。まあ惑わされるソースでもありますが。


:: シンクロ茄子 ::
「同期」って言葉使ってますが、適切ないい表現が思いつかなかったから使っているだけなので、僕が何を意図して同期という言葉を使っているか触れておきます。

まず、頭の中に2Dグラフを思い浮かべて、sinでもcosでもいいので、波形が右から左に流れていくことをイメージしてください。
世の中の様々な出来事の「波」の進む時間軸の速度、がその波形の流れる速さです。
出来事の社会へのインパクトなどが、波の縦軸の振幅です。
そしてグラフの目盛単位は「自分の」時間感覚です。
世の中の波の速さ、振幅、自分の感覚、が常に一定ではないとします。まあ感覚的にわかっていただけると思いますが。
こういった3要素を一定間隔で把握し、世の中の今と自分の感覚を認識し直す行為を、同期という言葉にしました。

電波時計じゃないアナログ時計のイメージでもいいですかね。時計が時計として役に立つ状態を保つために、それを使う人は時折時間を合わせるということをしますよね。それは、絶対的な時間をまず知り、遅れてる/進んでるを把握し、そしてちょうどに合わせたり、5分進めた時刻に合わせたり、適当に合わせたり、人それぞれ使い方に応じて、時計を合わせるでしょう。

そういった行為を、「世の中(社会)」と「自分」に当てはめたときのことを、「同期」とこのエントリでは言っています。


:: 「世の中」の範囲を限定する近代メソッド ::
日、週、月、年、いろいろなスパンで見れますが(また、時間的な同期とも限りませんが)、多くの物事が、大小含め様々な社会・共同体(の時勢)と自分の同期を取り、そこから自分の軸・立ち位置を把握・補正するということを行うためにデザインされている、と捉えると、世の中の情報デザインのあるべき姿が見えてくるような気がします。

現代においては、その世の中との同期を計るための物事の多く、というかそもそも「世の中」の認識が、自然や環境と切り離されてることが多いですよね。科学的に解体された事象毎に、同期保持のためのビューワー(閲覧環境)、同期元信号(ソース)、信号の位相ズレ(タイムシフト)などが存在するため、世界が細分化されて、人それぞれ過ぎる世界との同期の取られ方や、「本当の世の中」との乖離が進んだ箱の中の世界との同期が行われている、そういった面があるような気がします。そうなると、人々の世の中に対する認識の歪みが、ちょっと許容できないくらいになってしまうのでは。


:: 「世の中」をかつてのように拡大認識しよう ::
「世の中との同期」という視点で、そしてその「世の中」に自然環境や四季の移り変わりや八百万の神的・アニミズム的視点を取り入れれば、日本の伝統行事、地域ならではの行事なども、存在理由を身近なものとして考えられ、頭で理解するだけでなく、腑に落とすことができそうです。

様々なスパンでの、世界とのアニミズム的同期のための情報デザインをしていくこと、それがこれから必要なことのひとつなんじゃないかな、と思います。


:: メモ ::
関連しそうな、イメージ沸きそうな単語。
同期:synchronous
同情、共感、共鳴、賛成:sympathy
共感、思いやり、感情移入:empathy
協力、協調、提携、連携:cooperation
協調、一致、調和、和合:harmonization

ハーモニーっていいな。

ハコモノ電機メーカー

ハコモノ電機メーカー論というのを考えています。日本の電機メーカーに関して。主にテレビに関して。
箱物行政の「ハコモノ」から来てます。

日本において、国や地方公共団体などの行政機関が行った公共事業について、施設や建造物の整備(設置すること)そのものが目的になり、「それを何に利用するか」や「どのようにか通用するか」が後回しとなった結果、整備された施設が有効に活用されず、結果的に施設が必要とされず無駄の多くなってしまう行政手法を批判的に述べた用語で、過度にインフラ整備に重点を置く行政姿勢を批判する視点からの言葉である

箱物行政 - Wikipedia


:: テレビの役割 ::
テレビの画面に映るものはなんでしょう。テレビ放送、録画したもの、BD、DVD、CATV、YouTube、ビデオカメラやデジカメで撮影したもの、ゲーム、etc。

テレビというものは、どこに置かれてどんな人がどういう状況でそれらを見るのか、それによりそこでどんな経験が得られることを想定しているのか。デジカメで撮影したものをスライドショー形式で家族で楽しんで、家族間コミュニケーションが活性化されることを想定して、そういうことが自然としやすいよう意識した設計がされているかというと、そうではないでしょう。

結局テレビってのは主に国内放送を映し出す「箱」です。どんだけ多機能でもあれをなんのために使っているかというと、たいていテレビ放送(を録画したもの)を見るために使われてるわけです。あとはゲームのモニタ。それはREGZAだろうがVIERAだろうがBRAVIAだろうがAQUOSだろうが、なんだっていいわけで。


:: 神器としての価値 ::
テレビ放送を家族で見れたらどんなに楽しい時間が居間に訪れるだろう、という夢があった時代は3種の神器のひとつとしてもてはやされてたと思います。それを買うとステキ体験が待っていると、皆が妄想したから。テレビ放送というコンテンツそのものがまだまだ新鮮であり、その上に街頭でスポーツ中継を見てその場にいる人たちで興奮を分かち合うなんて体験を家族(や近隣の人達と)の空間=居間に持っていけるとしたら、それはもうwktkです。

テレビ放送というコンテンツをプライベート空間で見るという「箱と中身を通じた経験」が売れたということは、もうその経験のデザインはコモディティ化したとも考えられます。そこから電機メーカーは「箱」の目に見えやすい、お金払ってもいいと大多数が思える品質アップで競いました。明らかにきれいな画面、という付加価値の箱は、けっこう売れたんじゃないでしょうか。でも初めてテレビが家庭空間に入ってきたときと、その本質はあまり変わってないと思います。ラジオ時代から変わってない要素だってあるでしょう。


:: パーソナルコンテンツ用途として ::
現在、テレビという箱の中身を彩るコンテンツを誰でもが作れる道具として、ビデオカメラやデジカメ(スライドショーとか)があります。でも作ったものをテレビの中身として活かしているかというと、そうでもないでしょう。それにそんなに自分で撮影したものって「テレビで」見ますか。何かのきっかけに、ハードなりメモリなりをひっぱりだしてきて、ごそごそっと接続をして、ようやく見る、ということを、一部の人はやるという程度ではないでしょうか。

それはテレビが、個人がカメラ等で撮影したものを(家族などの皆で)見て楽しむためのものとしてデザインされていないからでしょう。同時に、居間にあるテレビという箱の中身を彩る(ものを作る)ための道具として、カメラ等がデザインされていないからでもあるでしょう。また、そういう「(個人作成コンテンツ主体の)居間での経験」のためのものはデザインされていない、または試みられたけれど受け入れられなかった、ということでしょう。その目的と想定している「経験」こそがコモディティ化している、あるいは陳腐である、潜在的にも顕在的にも求められてない、ということを示しているとも考えられます。今は。


:: テレビという箱の「復活」? ::
で、何が言いたいかというと、テレビはかなり用途(の想起)が限定されてる箱に過ぎませんよね、ということ。そしてその用途というのは、テレビ放送を見る、ということ。

某メーカーの偉い人が、

「テレビ事業の復活なくしてエレクトロニクス事業の復活なし」

などと以前言っていたのが記憶にあるのですが、もはやテレビという箱の価値の復活は、中身なくしては有り得ないでしょう。放送の権威が落ち、その他もろもろのコンテンツ配信の価値が上昇し、その閲覧デバイスとしてテレビが最適である、という状態になり、そしてそのデバイスを作れるのは1社しかない、というところまで来てようやく「復活」と言ってもいいのかもしれません。でもそれは、有り得ません。すでに居間なり一人暮らしの部屋なりでテレビで何かを見るという経験は、どこ製のテレビでも可能です。コンテンツの囲い込みをやったとしても、喜ぶ人はいないでしょう。嫌われるだけです。

テレビという「箱」の品質をこれ以上なくあげていけば、中身とそれらによる経験の総体の価値も自然と上昇し、人々の生活(文化)はよりよくなるだろう、だからテレビという箱にどんどん投資するのが正しい、という考えがあるとすれば、それは冒頭に挙げた「箱物行政」の有様にとても似ていないでしょうか。もちろん、放送局や映画スタジオなどで使用する機材も手がけているような電機メーカーだってありますが、「経験のデザイン」でみるような総合的な戦略を持っているのでしょうか。大きい企業ほど、そういうひとつのビジョンの元にビジネスやってるわけではないように思います。


:: PCだってたいていしょせんは箱 ::
もひとつ例を挙げます。VAIO Type P。あれはたぶん、わりと良い箱です。使う人によっては。箱の中身にどんな道具を入れられるのかわかり、どういう道具をどういう状況で使いたいかが明確な人、には評判良いはず。

でも箱です。箱のくせに、ステキ道具がいっぱいつまってて夢がひろがりんぐです、みたいな雰囲気を醸し出してないでしょうか。

さらには、前述の「VAIO Type Pを良いと捉える人」は、そういう勘違いをしていないでしょうか。あれがステキに見えるのは、あなた自身があれを箱だと理解して道具の選定もできる人間だからこそですよ、と。(わかってるならすいません)

良い箱と書きましたが、それでも特定の人向けの箱です。筆入れで考えましょう。一般的な学生向けの筆入れと、美術系の人向けの筆入れ(ってほんとはもっと細かい分野わけた方がいいですが)、は違う箱なのはわかるかと思います。中身も違うけれど。むしろ中身、その使われ方が違うからこそ箱としても異なるデザインなわけで。

まあ面倒なのでさらっと言い切ると「VAIO Type Pは特定の人向けのわりといい感じの箱ですよねー、そう、箱なんですよねー」。


:: 一般化領域での差別化 ::
中身のことも考えての「経験」のデザインができていないハコモノばかり作っていても、コモディティ化領域では価格以外で喜んでもらえることはあまりありません。世界で唯一の箱メーカーであれば、コモディティ化とは無縁でしょうが、そうではない製品がもうこの世には多い。

コモディティ化したハコモノは、使用者の思惑とのズレが少ない中身の詰め込み作業をラクにしてくれるものが喜ばれます。また、中身の箱からの取り出し方が小洒落たものが喜ばれます。あとはとにもかくにも価格。

AppleはiPodで、主に韓国メーカーの台頭でコモディティ化激しかった携帯型音楽プレイヤー業界において、後発ながら成功を収めました。箱のデザイン、箱への中身の詰め方、中身の取り出し方、コストパフォーマンス、すべてで良いと評価されたと考えられます。

ちょっと話が変わりますが、箱への中身の詰め方/取り出し方という点に関して、昔を思い出してみます。
その昔の、カセットやMDのポータブルステレオヘッドフォン全盛期においては、テープ・MDというメディアの録音可能時間の短さという性質が、ユーザの意欲を刺激していたのではないかと思います。60分テープに何をどういう順序で入れるか、何本テープを作るか、そういうふうに自分の携帯音楽環境をデザインする余地が、また楽しかった、実際楽しんでいた、のではないかと。携帯型ではないとしても、今のように何千曲もHDDに溜め込むことは不可能で、CD・カセット棚にライブラリがリアルに存在して、そうやって音楽の聞き方がテープ1本、CD1枚、などの単位になっていることが当たり前であったから、そういう箱詰め作業の楽しみもあり、だからこそ、「中身の選び方、詰め方、取り出し方、いろいろとユーザ任せ」でよく、ユーザ任せでない部分でのみ勝負が可能だったとも考えることができそうな気がします。


:: まとめ ::
飽きてきたので。
ビデオカメラ(やデジカメ)等のコンテンツ作成機器には、このハコモノ論に当てはまらない部分も当然ありますが、日本の電機メーカーの作る商品でAV/IT系の多くのものが、ハコモノ論に当てはまるんじゃないでしょうか。

そして箱ということに無自覚なまま、または中身も含めたデザインが大切ということをぼんやりとしか意識できないまま、結局はハード万歳ハコモノマンセーに陥って路頭に迷ってる企業が多いんじゃないかな、みたいな。

ですって。

2009年2月12日木曜日

梅には明朝体の漢字を


ひとつ前のエントリに続いて、梅の壁紙もう1枚。

梅で、どうしても明朝体を使ったもの作りたかったので。
合うはずとか思って。
タイポグラファー気取り。

新しく撮った写真で作ったから、iPhotoライブラリから壁紙候補写真が減ってない…。

「それは梅ですか?」「いいえ、これは梅です」


数日前に近所の公園で梅撮ってきました。木によって咲き具合がかなりばらつきありましたが、咲いてるのは七部咲きくらいでした。

何枚か壁紙候補の写真撮れたんですが、例えばこれも壁紙候補でしたが、作ってるうちになんかしっくりこなくなってきたりして、とりあえずテキスト入れるまで至ったのが、今回の壁紙です。

適当に英語辞書サイトで梅を調べてたら「梅の木は3月上旬まで見ごろです。」という英語の例文があったので、教科書テイストな感じがして気に入ったので、それ入れました。

あ、写真の色はピンクっぽくなる方向でいじってます。

2009年2月9日月曜日

未来的協業のスキルとかセンスとか

先月後半に風邪でダウンして以来、夜更かしは体力・免疫低下を招いて危険ということで、夜更かししない=創作活動しないという感じで、ついでにblogも停滞してました。たぶん夜更かしだけでなく、この半年ダイエットして体重もだいぶ減ってきていたのもあるでしょう。


最近、主にWeb界隈で、明らかに自分よりも若い世代の方々のアクティビティを目にして思うこと。

ある特定の分野においては、
・コミュニケーションスキル
・プログラミング等のスキル
・将来へのセンス
・行動力
などにおいて、僕が下手な社会人エンジニア何年やってようと、多くの高校生や大学生に勝てなくなってきている、という恐れを最近抱きつつあります。それだけ僕が下手「に」エンジニアをやっているということでもありますが。現時点ですら、圧倒的に勝てない要素がいくつもあるし。

5年後、10年後、僕はなにで誰と勝負できているのかあやしいもんです。「勝負」じゃ負けますので、もうちょっと違う言い方で考えてみます。僕は自分の持てるどんな力をもって、誰(主に自分より若い世代)との協業において、どう貢献することができるのか。あやしいもんです。

考えられるのは、やっぱ営業やマネジメント系の、人との関わりに通じるスキル。信頼構築とか。あーでも企業ならではのクローズドな環境でのプロジェクトマネジメント力的なものは、オープンソースのプロジェクトで鍛えられてるような世代にはむしろやっかいでうざいものかもしれない。ウソくせえビジョンでやる気の搾取をすることが上手な組織はたぶん生き延びないのではないかな、と。


そんなことを思いながら、話を企業に飛躍させてみたり。
企業体としての若返りを鈍化させているような大企業は、たぶん、前述の特定分野おいて、新しい企業やオープンな力にはきっと勝てないんじゃないでしょうか。そして勝負していない分野においては、たいてい、他国の企業に勝てない。勝負しようとしている限り、要は、社会的に存在価値がないとみなされる日が訪れるのも遠くはない、と。

プラットフォーム戦略という大地主制度を今から真似しようとするよりも、新陳代謝をはかり、協業していける分野へと多くの舵を切っていける企業、の一部が社会に存在を許されるのではないかな、なんて思う。プラットフォームも(個との)協業プラットフォームならいい希ガス。


後半、話を企業に飛躍させたところから適当過ぎるか。
結局どんな力を自分の武器にしていきたいのか。
タイトルのやつかなぁ。