2010年1月7日木曜日

世はおしなべてコンテンツという見方

って仮に考えてみましたよ。はい。


デジタルネイティブが台頭する世の中では「世はおしなべてコンテンツ」なんだ、きっと。(デジタルネイティブって言い方、実はしたくないんですが、まあ使いやすいので)

すると、それを消費する体験を如何に「共有」するか、その演出方法がうまければ、そのツールはその時点では価値があると見なされる。
で、コンテンツは消費して、あとに残る実体のない「思い出コンテクスト」が、たぶん今国内家電メーカーが探そうとしている価値ある「もの」だ。実体はないぞ、これ。それが宿る物体が確かにあると信じ過ぎると、余計に見つからない気がする。

思い出コンテクストへの扉を開く鍵と、扉を開いた先の道に思い出補間材をかざる時空間、そんなものを提供することができると、これまた価値があるとみなされる。


これはWiiのVCがいい例か。ゲーム機に関して8bitネイティブ世代なんかは、コンテンツとしてゲームを消費してきて友達といろいろ遊んだ「共有思い出コンテクスト」はしっかりとあるわけで。ゲームコンテンツ自体やロムカセットという物体、ファミコン本体という物体はなくとも、思い出そのものが一番「リアル」を伴っているでしょう、これ。そんな人のところに、VCで思い出コンテクストへの扉の鍵を用意し、鍵を購入して扉を開ける=プレイすると、両側に思い出写真がかざられた道を歩くような感覚を提供できる。


もう少し今ありそうな(?)ことで考えてみると、Web上に友達と行った旅行写真のアルバムを構築したとして、そのPermelinkに永続性だとかは求めてなくて、思い出コンテクスト補間のキーに過ぎないとわかっているのが、古くない世代の人。オンラインアルバムを見るのも思い出写真館を歩く感じだ。それは「どこかにある写真館」で、入ったら出る、のだ。そして、わざわざ行くもの、というのが当たり前。しばらく行かない間にあの写真館なくなっちゃったんだ、へー、残念、くらいだ。それでいい。前回行ったときにお気に入りの写真は手元にコピーをもらってきている。


基本Publicで、すなわち「世はおしなべてコンテンツ」の「世」に自分も入っている。
そしていくつか、時折、PublicからPrivateに選びとってくる、そして学習コンテンツなんかは昇華して再びPublishしたり、という生き方。

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